
電子商取引大手アリババのフィンテック関連企業アントグループは、数週間以内に最大3,500億ドル(約37兆円)とも言われる上場を控えている。順風満帆に見える同社だが、1) 米国の圧力、2) 上場承認の遅延、3) デジタル人民元、という3つの試練にさらされている。アントが流動的な環境にどう適応していくかは、世界で最も先進的な中国のデジタル金融の行方に多大な影響を及ぼすだろう。
米国務省は、アントが株式公開を予定しているのを前に、トランプ政権に対し、中国のアントグループを貿易ブラックリストに追加する提案書を提出したとロイター通信が14日に報じた。いつ「敵対リスト」に追加するかどうかを検討するかは、すぐには明らかにされなかった。トランプ政権の中国の強硬派が、最大3,500億ドルの時価総額を想定する新規株式公開(IPO)に参加しようとする米国の投資家を牽制するためのメッセージを送ろうとしていることから、この動きが出てきたと考えられている。
今後数週間のうちに行われる計画のIPOは、アントの成長を証明するものとなるだろう。これは、石油が最も価値のある資源であった前世紀からデータを重視する時代への世界の移行を象徴するものだ。世界の大手決済会社の40倍に匹敵する株価収益率(PER)を持つアントは、時価総額が3,000億ドルを超え、世界のどの銀行よりも高い企業価値に達する可能性がある。
上海と香港でのアントの二重上場は、今年最も期待されている株式公開だ。しかし、上海証券取引所は先月、テクノロジーに特化した科創板(STAR)への上場を承認したが、香港でのIPOについては、中国の証券規制当局からの承認を得られていない。
中国証券監督管理委員会は、香港証券取引所のIPOのための承認をまだ与えていない、と問題に精通している人はFTに語ったとされる。その人物は、IPOのスケジュールは通常の時間枠内にとどまっていると付け加えた。同社は、香港と上海の間で少なくとも10%の株式を提供して300億ドルを調達する予定で、一部のアナリストは同社の時価総額を3,180億ドルと評価している。
携帯電話アプリ「アリペイ」(支付宝)で金融を民主化してきたアントだが、IPOでも同様の傾向を示している。この上場では、個人投資家はアリペイから、同社株式の一部を独占的に割り当てられた5つのファンドに投資することができた。アリペイは、これらのファンドの「唯一の取扱業者」という立場だった。
5つのファンドは、合計600億元(89億ドル)の資金を調達したと発表した。それぞれのファンドは、資産の10%をアント株に投資することが認められている。個人投資家には18ヶ月間のロックアップ期間が設けられている。これは、従来型のIPOのプロセスを飛び越えている。投資銀行が引受け、機関投資家に優先的に売るという商流の外側で、アントは直接個人投資家とつながっているからだ。
米国では、シリコンバレーのテクノロジー企業とベンチャーキャピタルが、証券会社の仲介を排除する直接上場(ダイレクトリスティング)に傾倒し始めている。アントの慣行は、直接上場を柔軟に解釈した格好になっている。小売、卸売という垣根を配してスケーラブルなデジタルプラットフォームを使うことで、個人と金融商品を直接結びつけてきたアリペイを展開するアントは、自分自身のIPOでも同様の流儀を見せた。
FTによると、アダマス・アセット・マネジメントの元最高投資責任者であるブロック・シルバース氏は、投資銀行を中抜きしたファンドマネージャーとアリペイの取り決めは、中国の資本市場に「劇的な影響」を与える可能性があると述べた。「(この取引は)アリペイやウィーチャットペイのような企業を介して広大なリテール資本のプールにアクセスする際に、従来の投資銀行を迂回する手段を、中国株式会社(China Inc)がより一層利用できるようになることを目指している」とシルバース氏は述べている。
金融プロセスが拡張可能なクラウドの上に載った
アリペイをめぐる報道では常に金融を簡易なものにするユーザーインターフェイス(UI)に注目が行きがちだが、実際には、金融プロセスが、クラウド上に構築された、非常に高度な分散型システムに移植されたことがアントの技術革新の中核である。
2019年の独身の日のショッピングフェスティバルの期間中、アリペイ行われた最大取引件数は1秒間に54.4万件に達したが、アリババクラウドの分散システムはこれをつつがなく処理することができた。これほど驚異的なスループットを示す決済システムは他に例がないだろう。独身の日は想像を絶する。プロモーション開始からわずか1分36秒で100億元(1560億円)の取引が、わずか5分25秒で300億元の取引が、13分弱で500億元の取引が行われたと言われる。
アリババのクラウド技術が優れていることを示す典型的な例として、独自のデータベースであるApsaraDB for OceanBaseが挙げられる。ApsaraDB for OceanBaseは、アリババグループがデジタル金融という用途を意識して開発した、ハイスループット、高可用性のシナリオに対応したリレーショナルデータベースサービス。取引、アカウント、消費者金融サービス、消費者ローンサービスを含むアリペイのすべてのコアビジネスデータは、ApsaraDB for OceanBaseに保存されている。従来のOracleソリューションと比較して、ApsaraDB for OceanBaseは低コストで、より高いスケーラビリティを実現している。
最大処理能力は毎秒6,100万回。1つのクラスタでの最大データ量は3PB以上、テーブルの最大行数は1兆行以上とアリババクラウドは説明している。ApsaraDB for OceanBaseは「Paxos」と呼ばれる分散合意プロトコルを使用しており、複数のデータレプリカを保持している。サーバを分散アーキテクチャで配置することで、金融にふさわしいデータベースを構築することができる。「ApsaraDB for OceanBaseを利用することで、他の商用データベースの3分の1のコストで信頼性とデータの一貫性を実現することができる」とアリババクラウドは説明している。
ApsaraDB for OceanBaseは、これまでとは異なるデプロイメントアーキテクチャを提供している。アリペイのビジネスでは、分散されたサーバーやデータセンターでディザスタリカバリ(障害復旧)機能を提供する「Three Centers in the Same City」(一つの都市に3つのデータセンター)アーキテクチャを採用している。ApsaraDB for OceanBaseは、共通のサーバを追加できる分散設計思想を踏襲しており、高性能なマシンへの依存度を低減している。
デジタル人民元の試練
稀に見る成功を収めたアントだが、中央銀行デジタル通貨(CBDC)という新しい試練に直面している。デジタル人民元はアントを飛躍させる可能性がある一方で、頭越しにしていた商業銀行と同列の存在に矮小化してしまうかもしれない。
デジタル人民元では、中国人民銀行(中央銀行)は商業銀行を完全になくしてしまう仕様を設計することも可能だったが、実際には、銀行口座は生き残り、口座とウォレットを分離する仕様に落ち着いた。アリペイとウィーチャット・ペイ(微信包銭)は商業銀行と同様、CBDCの「二次発行体」の地位に置かれることになる。
デジタル人民元のウォレットの開発は、アントグループやテンセントではなく、中国人民銀行が主導しており、その提供者を商業銀行とアントグループやテンセントなどの第三者決済機関が分担する枠組みになる公算が高い。協力先を見ていると、中国人民銀行の審査を通れば、美団点評のような他のテクノロジー企業もウォレットの提供者となれる可能性がある。デジタル人民元導入後は、商業銀行はウォレットの開発という不慣れな技術開発をする必要はなくなり、アリペイなどと同列に競争ができるようになる可能性があるのだ。
裏返すと、これは、デジタル人民元はアリペイが築いた技術的・商業的優位性の大半を消滅させてしまう可能性があることを示唆している。ウォレットの提供者はデジタルトランザクションのゲートウェイというポジションを享受しているからだ。
ただし、中国人民銀行はデジタル金融において大いに先行するアントの知見を利用する姿勢も示している(そもそもアントのビジネスモデルが許容されたのは中国人民銀行や共産党が同社を特別扱いしたと考える人もいるほどだ)。
中国人民銀行は2020年初頭までで、デジタル通貨に関連する80件以上の特許出願を行っているが、全体として、これらの特許は中央銀行による非常に厳しい管理下にあるシステムを示唆しており、欧米諸国の銀行システムに見られる以上のものとなっている。例えば、中国人民銀行の特許出願の中には、利用者が既存の銀行に預金を預け、預けたお金をデジタル人民元に交換する技術的な仕組みが記載されているものもある。
アントは、中国人民銀行とともに技術開発に参画し、デジタル人民元に明確に関連した特許出願をいくつか行っている。これらの出願には、デジタル人民元システムの第2層を管理する金融機関に関する興味深い機能やアーキテクチャへの示唆が含まれている。デジタル人民元は、利用者は他の利用者に対してある程度の匿名性を享受しているが、銀行はマネーロンダリングやテロ資金調達に対抗するために、疑わしい取引の匿名性を解除できる仕組みを持っている。アリペイが出願した特許出願では、このような仕様について「制御可能な匿名性」という同じフレーズを使用しており、ユーザー間の取引における匿名性のメカニズムが記述されているが、ユーザーの金融情報からの匿名性のサポートは提供されていない。
アントが出願した最近の特許には、規制当局がユーザーの資金を直接、瞬間的に、そして単一の横方向に凍結することができる「アカウント制御」が記載されている。このアカウント制御は、特定のユーザーに属するアカウントのタイプを変更したり、特定のアカウントへの資金の出入りを停止したり、アカウント内のデジタル人民元の一部または全部を凍結したりすることができる。
他にもアリババが提出した特許1、特許2から、ソフトウェアだけではなくハードウェアによるサポートによって、アプリケーションの安全な実行環境を実現するための技術仕様である「Trusted Execution Environment (TEE) 」を採用することに潜在的な関心があることが明らかになっている。
中央銀行とともにデジタル人民元の技術提供者として特許を出願していることは、アントに有利に働く可能性は高いだろう。